ヴェネチアの繁栄と衰退

中世 ~守護聖人も決まる

697年にはヴェネツィア人は初代総督を選出して独自の共和制統治を始めることになりました。これがヴェネツィア共和国の始まりになっています。1世紀の間は政府内部の不和ということもあって不安定な政治が続いていきましたが、外敵の脅威に対しては結束します。

836年にはイスラムの侵略を撃退し、900年にはマジャールの侵略を撃退しました。

10世紀後半からはイスラム諸国と商業条約を結びましたが、これはイスラム教徒と戦うというよりは貿易をしようというヴェネチア人の現実的な政策によるためです。

9世紀の始め頃、フランク王国がヴェネチアを支配下に置こうとして軍を派遣します。そのために、トルチェッロにいた人々は更なる避難を余儀なくされて、現在のヴェネチア本島へと移り住むことになりました。このときにたどり着いたのが今の「リアルト地区」になっています。

810年に東ローマ帝国とフランク王国間で結ばれた条約で、ヴェネチアは東ローマ帝国に属することになりますが、フランク王国との交易権ももつこととなってこの条約から貿易都市への布石が置かれました。

ヨーロッパの国々では、この時代にその国の存在をアピールする目的で、その国の守護聖人を求める風潮がありました。ヴェネチアも同じ様に守護聖人を求めていたところ、福音書著者の聖マルコの遺骸がエジプトのアレクサンドリアにあって、イスラム教徒に奪われる恐れがあることを聞きつけて、828年に聖マルコの遺骸を奪い取ってヴェネチアに運びました。この時からヴェネチアは聖マルコを守護聖人とすることになりました。

10世紀後半からはイスラム諸国とも商業条約を結んで交易を拡大していきます。さらにアドリア海沿岸への支配地域の拡大に努めていきました。ジェノバ共和国といぅた同じイタリアの貿易都市とは違って、ヴェネチアは都市の周辺海域が大国・東ローマ帝国の制海権内にあったために、イスラム勢力による海上からの直接的脅威を感じることが少なかったことも、イスラム諸国との関係を積極的に進める要因となりました。

11世紀には、弱体化した東ローマ帝国の要請でアドリア海沿岸の海上防衛を担うことになります。その海上防衛の代償として東ローマ帝国内での貿易特権を得ることになりました。

1204年に第4回十字軍とともにヴェネチア艦隊は東ローマ帝国首都のコンスタンティノープルを攻略します。援助への代償としてクレタ島などの海外領土を得て東地中海最強の海軍国家となりました。その結果、アドリア海沿岸の港市の多くがヴェネツィアの影響下におかれることになりました。ヴェネツィア共和国は東ローマ帝国分割で莫大な利益を獲得して、政治的にも地中海地域でヨーロッパ最大の勢力をほこるようになりました。東地中海から黒海にかけての海域が「イタリア商人の海」ともいうべき状況になったことは、13世紀にヴェネチアのマルコ・ポーロが黒海北岸から中央アジアを経て中国(その当時は元)へ向かうことを容易にさせました。

富裕な貴族たちは政治の支配権の獲得をくわだてて、13世紀末ごろには少人数の独裁的な政治がおこなわれるようになりました。13〜14世紀には商業上のライバルのジェノバとの戦いがつづいていきました。1378〜81年の戦いで、ジェノバはヴェネチアとの遂にヴェネチアの優位な立場を認めることになりました。その後も侵略戦争で周辺地域に領土を次々に獲得していったヴェネチアは、15世紀後半にはキリスト教世界でも屈指の海軍力をもつ都市国家にまでなりました。

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近世

15世紀半ばのオスマン帝国の進出によって、ヴェネチアの海外領土が少しずつ奪われていき、最盛期は終わりを告げることになりました。

1538年のプレヴェザの海戦で、オスマン帝国は地中海の制海権をほぼおさえることに成功しました。それはさらにヴェネチアにとっての圧力となりました。その上、大砲の登場によって干潟に住むメリットがなくなってしまいました。

その後の諸外国の侵略、そして他のイタリア都市の攻撃で、ヴェネチアの力は弱まっていきました。

さらには、ヴァスコ・ダ・ガマの航路発見も大きな痛手となります。1497〜98年にポルトガルの航海者ヴァスコ・ダ・ガマは喜望峰をまわるインド航路を発見しました。そのため貿易の対象がアジアに移ります。そしてアメリカ大陸が発見されたこともあり、時は大航海時代へ移るとと共に貿易の舞台はアドリア海から大西洋や太平洋に移っていきました。

それによってヴェネチアの貿易に対する影響力は低下して衰退は加速されていきました。衰退を食い止めるためにヴェネチアはガラスやレースといった工芸品を作ることで対処していきます。1508年、ヴェネチアに対抗して神聖ローマ帝国、教皇、フランス、スペインは同盟を結びます。そしてヴェネチア領土内にある財産を没収してしまいました。1516年にヴェネチアは巧妙な外交で、なんとかイタリアでの支配権をとりもどすことは出来ましたが、海洋国家としての地位は回復することはできませんでした。

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1797年に、ヴェネチア共和国はナポレオン・ボナパルトに侵略されてしまい、ついに崩壊しました。カンポ・フォルミオ条約によって、ナポレオンは領土(ヴェネチア)をオーストリアに引き渡しました。オーストリアは1805年にフランスが支配するイタリア王国に譲りましたが、1814年には奪回します。

オーストリアは港湾都市としてヴェネチアよりもトリエステを重視したこともあって、ヴェネツィア経済は衰退しました。その翌年に、ヴェネチアとロンバルディアはロンバルド=ヴェネト王国をつくりました。

ヴェネチア人はイタリアの政治家ダニエーレ・マニンの指導のもとで、1848年にオーストリア支配に対する反乱(1848年革命)をおこして、ヴェネト共和国を建国しましたが、その翌年にオーストリアの攻撃により降伏しました。

1866年に普墺戦争がはじまると、イタリア王国はこれを第三次イタリア統一戦争としてオーストリアに宣戦布告します。この結果、ヴェネチアとヴェネト地方はイタリア王国に編入されることになりました。

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